日記・コラム・つぶやき

2019年2月26日 (火)

ホームページ登録をYahoo!ジオシティーズからさくらインターネットに変更

  平成21年8月から「イバイチの奥の細道漫遊紀行」というホームページをYahoo!ジオシティーズに登録し、インターネットにアップしてきたが、昨平成30年(2018)10月に、突然Yahoo!ジオシティーズサービス終了のご案内というメールでの連絡がきた。
      
   それによるとジオシティーズは1994年にアメリカで誕生し、インターネット初期の代表サービスの一つになったということで、日本では2000年からYahoo!ジオシティーズとして運営されてきた。その間アメリカや各国で提供された!ジオシティーズは2009年にサービスを終了し、日本のジオシティーズだけが残っていたが、Yahoo!ジオシティーズもこれ以上のサービスは難しいということになったということである。
   
   小生は2009年に、現在も所属しているホームページの会に入会し、「ホームページビルダー13」というテキストで、Yahoo!ジオシティーズの容量50MBまで無料で使用できるというコースに入会した。

  その後、315円/月使用料が掛るが広告が入らず、容量300MB使用出来る「ジオライト」というコースに変更した。更に2012年に容量1000MBで独自のドメインが使用出来て、使用料は540円/月の「ジオプラス」というコースに変更した。それ以来「www.ibaichi.com/」という独自ドメインを取得して、その後6年間使用し現在に至っている。
   
   Yahoo!ジオシティーズサービスは終了スケジュールとして「ホームページの標示」、「転送設定」などは2019年3月31日と決められているので、半年間にどうするか決めなくてはいけない。
    ジオシティーズサービスでは移行手続きとして、「ホームページの移行」「独自ドメインの手続き」「ホームページの転送設定」について移行ガイドが示されているので、それに依ることにした。
      
  まずどの社に移行するかだが、Yahoo!ジオシティーズサービスの方から6社の紹介があり、インターネットでウェブサイトを調べた結果、11月1日に規模が大きく、業容も堅実と思われる「さくらインターネット」に決めて交渉を進めることにした。
       
   進め方は最初に、「さくらインターネット」に会員登録をして「さくら」のホームページ(ドメイン)を貰うことから始まる。独自ドメインとの関連が良く判らず、何回かメールのやり取りをしたが、取り敢えずは「さくら」の新しいホームページ(ドメイン)にYahoo!ジオシティーズから移行することが先決のようだと判ったので、Yahoo!ジオシティーズのホームページデータを転送することにした。
   
   転送設定はYahoo!ジオシティーズのホームページの転送設定の欄に「さくらエディタ」の使用が推奨されていたので、それを ダウンロードした(無料)。「さくらエディタ」を使用して転送する手順、方法も詳しく説明してあったので、それを読みながらパソコンに上書き保存してあった最終データを、FFFTPを通してさくらのレンタルサーバーにアップロードすることにした。
    しかしホームページの使用容量が2.3GBあるので、用心のためもあって主要な10個の大分類別に分けて移行した。だいぶ時間が掛かったが、大きなトラブルもなく移せた。

    しかし「www.ibaichi.com/」という独自ドメインが使用できず、何回かメールで問い合わせをしたが、最終的に11月19日にドメイン転入作業完了というメールが入り解決した。ドメイン名利用には登録者情報(Whois情報)をICANNという団体が管理していて、変更情報の登録が必要であり、その間の事務処理日数が掛ったらしい。

    小生の場合「独自ドメイン」と「さくらインターネット」の二つのドメインがあるので不安だったが、「Yahoo!」から「さくらエディター」による転送はほぼ満足できた。しかし「Yahoo!」から「さくら」ドメインへの変換は確実にできたが、「さくら」ドメインから独自ドメインへの変換については本文中からのリンクやサイドメニューからのリンクの修正がされておらず、後から点検して修正するのに時間が掛かったがまだ完全には訂正されていないと思われる。

   しかし今後の訂正はその都度行うことにして、Yahoo!ジオシティーズからさくらインターネットへのホームページ移管は一段落したので、平成31年1月末で、Yahoo!ジオシティーズを解約をすることにした。

    その間判らないことも多く、「ヤフー」と「さくら」に対するメールの交換は20通を超えたが、新しい知見が増えたことと、そろそろホームページの改訂をしようかと思ったことが収穫だったかな。
   
       (この項終わり)

******************************************************************************************************************************************************************

2019年1月19日 (土)

「二十五年後の読書」「この地上において私たちを満足させるもの」を読んで


  二十五年後の読書                    乙川 優三郎著 2018年10月発売

  この地上において私たちを満足させるもの    乙川 優三郎著 2018年12月発売

Img_7386_2 昨年(平成30年)12月22日の朝日新聞の書評欄に、作家の諸田玲子の上記2冊についての書評が大きく掲載されていた。


 乙川優三郎は直木賞を受賞した「生きる」を平成15年に読んで以来、ほとんど読んでいる。その中で平成24年に「麗しき果実」、25年に「脊梁山脈」、26年に「トワイライト・シャッフル」、28年に「ロゴスの市」について感想を書いたほど愛読している。

 早速12月28日に図書館に行き、「二十五年後の読書」を借りることが出来た。その後、1月9日に「この地上において私たちを満足させるもの」も、予約して借りられた。

 この2冊は発売日が2か月しか違っておらず。しかも「二十五年後の読書」の主人公である書評家の響子が、谷郷敬という恋人の作家との別離により生きる気力を失ってしまった時に届けられたその作家の最新作が「この地上において私たちを満足させるもの」という題名になっているという体裁である。

 

Img_7390_3  「二十五年後の読書」は、主人公が中川響子という55才の女性で、30年越しの作家と男女の関係にある。しかし作家と書評家と立場は違っていてもお互いに真摯に文学に向き合っている。

 作者は響子の考えとして、書評や評論の中には分析として優れたものもあるが、根本にあるべき文学への愛情を欠いていたり、文学青年ばりに初(うぶ)な指摘もあって、評論家を名乗る前に人間を磨いてほしいと思うことすらある。しかも文章がひどく拙い。短い書評でも文学に負けない美しい日本語で書くべきだと述べている。

 そして最後の頃、届けられた谷郷の新しい作品を読み始めた印象として、作家の筆は嫌なつまらない人間を書きながら不愉快で終わらない文章がある。作家は不屈の意志をもってそのことに挑んでいる気がした。的確な心理描写があり、目に浮かぶ情景描写があり、選び抜かれた言葉による最適な表現がある。

 無意味な会話を大胆に省いて、ひとこと二言で心情を伝える密度が快い。と書いており、否が応でも次の作品である「この地上において私たちを満足させるもの」について期待を持たせている。

 

 

Img_7387_3 「この地上において私たちを満足させるもの」は、高橋光洋という老作家が、若いころフランスからイタリー、スペインと放浪し、ポルトガルからインド、タイを経て、フィリピンに渡った。

 その間多くの強烈な出来事に逢い、やがて日本に帰って作家を志し、名のある文学賞を受賞した。そして編集者だった矢頭早苗と生活を共にすることになった。

 しかし自分が書くべきことは鮮明に見えていたが、書くことは言葉との闘いであり、ほんの一瞬のことをどういう言葉で表現するかによって、まったく別の景色になってしまう。想念の中に見えている世界をふさわしい言葉で表せたとき小説は立ってくる。それこそ万感を呼ぶのである。と考えると、これが高橋光洋の文体と呼べるものに中々ならない。

 そんな時、たまたまテレビで日本人とフィリピン人とのボクシングの試合を見て、そのフィリピン人が、昔マニラの貧民窟で隣の家に住んでボクシングの練習をしていた少年だったことに気付き、自分も苦しくても躓いても書いていこうとする気持ちになった。

 しかし、光洋を励まし続けた早苗が膵臓がんで急逝してしまうと、光洋は酒に入浸りになってしまったが、やがて早苗が最後に仕事で行ったタヒチに赴き、その鮮烈な景観や現地の人の人情に触れ、徐々に気力を取り戻し、早苗の骨をこの海に散骨しようと考えた。

 その後も多くの変遷があったが、その一つとして、マニラで寄宿していたあと日本に引き揚げる時に、その家の娘が医師を志していることを知り、残りの金を全部渡したことがあった。その娘が志望通り医師になり、老年の光洋を案じてソニアという親戚の娘を家政婦として日本に送り込んできた。

 ソニアやがて日本に永住することを決意し、雑用から解放され執筆に専念できるようになった光洋はソニアを養女にしようと思っている。

 海辺の見える家で、光洋は青年時代人間製鉄所で働いたおりの当時の安アパートや小さな飲み屋のことを思い浮かべ。あの当時のことなら良い佳編になるのではないかと心の中で思い浮かべていた。

 

 乙川優三郎の作品は以前から余分な表現や冗長な文章では無く適切で読み易い内容のものが多く、読んでいて気分が良いので愛読しているのだが、今回のこの2冊は作者自身がそう考え実践しているであろうことを作品の中で述べているので、再読した時気を付けて読んだ。

 同じような内容のストーリーを、場所や登場人物を変えて描いているだけの作品を多く出している作家には、耳が痛いのではないかと思った。

 書評をした諸田玲子は最後に、「死や別離や苦悶の先にある希望、それが文学だよ――と、そんな著者の声が聞こえてきたような。それは文学だけに留まらない。人間にとって充足とは何かという重い問いかけが、この2冊にはつまっている。」と書いている。

 (この項終わり)

************************************************************************************

 

2018年10月19日 (金)

3冊目の本を造る

 一昨年(平成28年)に「往時渺茫(びょうぼう)」という本を始めて造ったが、昨年(平成29年)は「幕末の水戸藩」という2冊目の本を造った。

 造り方は一冊目と同じようにWordで原稿を作り、16ページの折丁に印刷し、糸綴じ、化粧裁ちをして表紙を造り本文を張り付けるという本造り全体を自分で作業し完成させる方法である。

Img_7117Img_7112Img_7113Img_7116Img_7114 そして今年(平成30年)は3冊目の本として「おくのほそ道漫遊紀行(1)深川~平泉」という題の本を同じやり方で造った。

 これは以前に松尾芭蕉の「おくのほそ道」をたどる旅をした内容をブログやホームページにアップしたが、それを再編集してその中の江戸深川から奥州平泉までを第1巻として本にしたものである。
   
 「おくのほそ道」はその後、山寺立石寺、出羽三山、象潟(きさかた)、山中温泉、敦賀などを経て大垣まで続くので、出来ればさらに第2巻、第3巻まで書き進もうと思っている。

 小生が「おくのほそ道」をたどる旅を志したのは平成13年で、それから5年掛かって平成18年に結びの地大垣までたどり着いた。その旅行記の内容を平成19年から平成21年までに「奥の細道漫遊紀行」というブログにまとめ、更にホームページに平成21年に「イバイチの奥の細道漫遊紀行」という題名でアップ出来た。

 その後、ホームページの題名を「イバイチの旅のつれづれ」に改め、毎月何件かのあちこちの旅紀行や読書感想などを掲載しており、アクセス回数もブログ・ホームページを合わせると今年中に8万回になりそうである。

 しかし小生も平成30年には85才になり、いつまでも新しい紀行やコラムを書き続けることは出来なくなってきている。ホームページやブログは継続して書き続けずに何ヶ月か過ぎると消滅してしまうことにも気付いた。そのため次世代以降に何か残すとなると印刷物が一番良いではないかと思うようになった。

 思えば最初に造った「往時渺茫」という本は小生の祖父と父の兄弟について記したもので、子供世代や孫世代に先祖の事を少しは身近に感じられるようにと思い、父とその兄弟が取り交わした若き日の書簡や、祖父の事績を子供から見て感じた書類などをメインにしてまとめた本だった。

 翌年の「幕末の水戸藩」は生まれ育った茨城の幕末の出来事を、天狗・書生の事跡をたどって、水戸周辺ばかりでなく筑波、栃木、中山道から敦賀まで、また会津から新潟、更に千葉までの旅をまとめた本だった。

 そして今回は「おくのほそ道」である。身近なことからだんだん広げていった気がするが、すべて自家制作の本なので10部内外しか作れず、結びの地大垣まで無事たどり着けるだろうか。

(写真をクリックすると大きくなります)

(この項終わり)

*******************************************************************************************************

2018年8月23日 (木)

「隠蔽捜査7---棲月(せいげつ)」を読んで

 棲月(隠蔽捜査7)    今野 敏著   2018年1月発売

 今野敏の作品を読み始めたのは平成19年1月に「隠蔽捜査」(平成17年発売)が初めてだった。その後今回の作品「棲月」まで60冊以上の今野敏の作品を愛読している。

 今野敏の作品は警察小説のジャンルが多いが、その中でも「隠蔽捜査」シリーズはメインになるもので、初回の「隠蔽捜査」で吉川英治文学新人賞を受賞し、第2回の「果断・隠蔽捜査2」で山本周五郎賞と日本推理作家協会賞を受賞している。

このシリーズは

 「隠蔽捜査」    平成17年(2005)発売、

 「果断 隠蔽捜査2」 平成19年(2007) 〃

 「疑心 隠蔽捜査3」 平成21年 (2009)  〃

 「初陣 隠蔽捜査3.5」平成22年 (2010) 〃

  「転迷 隠蔽捜査4」  平成23年(2011) 〃

 「宰領 隠蔽捜査5」 平成25年(2013) 〃

 「自覚 隠蔽捜査5.5」平成26年(2014)  〃

  「去就 隠蔽捜査6」 平成28年(2016) 〃

Img_6990

 

「棲月 隠蔽捜査7」 平成30年(2018) 〃

 

 

 と続いており、今回で9冊目である。

 このシリーズの主役は普通の警察小説の刑事では無く、警察庁のキャリア官僚の竜崎伸也警視長である。竜崎は私利私欲とは無縁で、国家公務員としてあるべき姿や、原理原則に忠実であるため変人といわれている。

 竜崎はある事件によって警察庁長官官房総務課長から大森署の署長に左遷されたが、それにめげることなく活躍する内容がこのシリーズのメインで、最初は戸惑った部下の署員たちからも厚い信頼を寄せられるようになる。

 しかし次回から神奈川県警刑事部長に抜擢されることになった。

 作者は、このシリーズを今後も続けると表明しているので、次作からは竜崎の神奈川県警での活躍が見られることになる。

 今野敏の作品紹介は2016年に「平成27年後半印象に残った本」として紹介した中に「自覚  隠蔽捜査5.5」を載せてある。また2017年に「継続捜査ゼミ、回帰、を読んで」という隠蔽捜査シリーズ以外の今野敏の作品を紹介しており、今回で3度目である。

 今回の「棲月 隠蔽捜査7」は、鉄道、銀行、文部省のシステムがダウンし、出勤や銀行業務などに障害が発生するという3件のサイバー犯罪が行われ、それと同時に殺人事件が発生するが、そのすべてがコンピューターを駆使するハッカーによる犯罪であるようなので、従来の犯罪捜査の手法だけでは捜査がうまくいかず、新設されたサイバー犯罪対策課などとも協力しあって解決に導くという新しい捜査方法が描かれており、その間に神奈川県警への異動の内示があり、大森警察署から離れることに未練を感じつつ去っていくという内容である。

(この項終わり)

2018年7月21日 (土)

「ライトマイファイア」を読んで

 ライトマイファイア    伊東 潤著   2018年6月発売

Img_6731 この本は時代小説家の伊東潤が2016年に発行した「横浜1963」以来、2冊目の現代小説である。

 前作はあまり良い出来栄えとは思えなかったが、今回は1970年(昭和45年)発生のよど号ハイジャック事件の犯人の中に公安の警察官がいたという仮説で、その潜入から脱出までの経緯をスリル満点に描いている。

一方その45年後の2015年(平成27年)に発生した川崎市の簡易宿泊所放火事件の捜査をする警察官との関連をつなぎ合わせ、さらに現在のアメリカの傘下にある日本の現状も見えてくる、読んで満足のいく作品である。

 まず、公安の三橋は中野と名を変え、昭和44年4月から大学生としてある大学に入学し、学生運動の一員として活動を始めた。その結果赤軍派の「さど号」ハイジャックの実行犯を命じられた。だが、下っ端のため命じられたことをやるだけでしかなかった。

 公安の上司にこの計画を伝えたが、そちらからの指令も無く、ハイジャックは実行され北朝鮮に到着した。その間の出来事を三橋がハイジャックの一員としてまた警察官として人質になった乗客の安全を守れるかとの相剋に悩みながら推移していく描写は手に汗を握る場面である。

 本来の赤軍派の計画では北朝鮮からキューバに行く筈だったが、北朝鮮側はメンバーを洗脳して革命戦士として生まれ変わらせ各種工作に従事させようとしていた。

 それを知った三橋は何とかして脱出することを考え警備艇を強奪し、迫りくる危機を何とか乗り越えて韓国領海で米国巡視艇に拿捕された。その時一緒に逃げた男がいたが、北朝鮮巡視艇の銃弾で亡くなった。この脱出劇も眼を離せないスリル満点な描写で描かれている。

その事件から45年後、10人の死者を出した簡易宿泊所放火事件を追っている寺島刑事は亡くなった10人の身元確認を担当したが最後の一人がなかなか判らず、放火犯の目星も付けられなかった。しかし僅かな手掛かりを丹念に追っていくことから驚愕な事実が判明する。

 それについて、文芸評論家縄田一男は「この作品は一編のミステリーでもあるからにして、詳しくは書けないが、エピローグを読んでこう言おうではないか『蟷螂(とうろう)にも、斧はあるのだ、と。』と書いている。

 なお表題のライトマイファイアは、アメリカのThe Doors(ドアーズ楽団)の楽曲 「Light  My Fire (邦題はハートに火をつけて)」 を引用している。本文の406ページに歌詞の一部が載せてある。

 今(平成30年【2018】)から50年近く前の1969年の東大安田講堂占拠事件から翌年のよど号ハイジャック事件、1972年の浅間山荘事件と続いた、全学連から日本赤軍が起こした騒然とした空気を久し振りに思いだした。

 改めて思い起こすと日本とアメリアとの関係、北朝鮮と日本との関係、沖縄問題とも50年前とほとんど変わっていない。その間で暗躍する日本の政治家や財界のブローカーなどの跳梁も同様であろうか?

(この項終わり)

 

 

2018年6月20日 (水)

葉室麟の遺作「玄鳥さりて」を読んで

 葉室麟は昨年(2017)12月に66才で亡くなった時代小説家である。デビュー作の乾山晩愁(2005)で歴史文学賞を受賞し、その後、銀漢の賦((2007)で松本清張賞を、そして蜩(ひぐらし)ノ記(2012)で直木賞を受賞している。
 

 玄鳥さりて   葉室麟   2018年1月発売

Img_6558  「玄鳥さりて」は葉室麟の遺作となった時代小説である。

 主人公の三浦圭吾は少年時代、道場で一番の使い手で8歳年上の樋口六郎兵衛の稽古相手になることが多かった。圭吾は稽古に励み、何時しか道場の隼といわれるほど上達した。六郎兵衛は軽輩の出なので、剣の使い手だけでは出世できず、また自分を売り込もうとはせずひっそりと生きていた。その六郎兵衛がある時以前から遺恨を持っていた3人の藩士に襲われたが、逆にその3人を切り殺し遠島になった。

 それから10年が経ち六郎兵衛が許されて帰藩できることになった。その頃圭吾は出世して勘定奉行になり、藩内の派閥争いに巻き込まれるようになってきた。また本藩から養子に来た藩主も親政を考えて派閥争いに首を突っ込んできた。その間いろいろな出来事があったが結末近く、藩主は圭吾が邪魔になると考え、六郎兵衛と果し合いをすることを命じ、同時にどちらかが生き残ったとしてもそれを抹殺しようとした。

 それに対し、果し合いの場で圭吾を葦の茂った水辺のほとりに誘い込んだ六郎兵衛は圭吾に侍を辞め関西に行くことを薦め、用意してあった小舟に圭吾を乗せた。病気のため余命がいくらも無いことを知っていた六郎兵衛は「武士の刀は主君であれ、家族であれ、おのれの命にかえても守りたい大切なひとのために振るうものだ」というせりふを残して藩主を切るべく歩き出すところで終わる。

 玄鳥とは燕のことで、六郎兵衛が圭吾の家の守り神になっているとの意。六郎兵衛は以前親切にされた剣士を守りきれず切腹させてしまったことがあり、圭吾の道場での表情がその剣士にそっくりだったことから、圭吾を生涯友として守ろうと思い定めたのだった。

 葉室麟の小説は、自分の考えを思い定めた後は、たとえ自分の不利益になっても幾多の困難や誘惑を乗り越えて、信じる道を進んで行こうとする作品が多い。また作中に短歌、俳句、漢詩などを取り入れて、それが作品の隠れた主題になっていることも多くある。

 この作品でも「吾が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし」という和歌がその役目を果たしているが、他の作品でも正邪入り乱れるストーリーの中でも一服の清涼剤になっており、また主人公の変わらぬ想いを再認識させる役目を果たしている。

 葉室麟の作品を読むのは平成21年(2009)に「秋月記」「銀漢の賦」を読み始めて以来、この本で丁度50冊目にあたる。人間の欲望に陥る弱さに理解を示しながらも己の生き方を曲げない作品が多く、爽やかな読後感をもたらし余韻を残してくれる。ずっと愛読してきた作者であり寂しい限りである
 

(この項終わり)

2018年4月13日 (金)

「雲上雲下」を読んで

 雲上雲下    朝井 まかて著   2018年3月発売

Img_6220 朝井まかては幕末の水戸藩に関連する作品「恋歌」で平成25年に直木賞を受賞した作家であり、「雲上雲下」以前に15冊発行された中で11冊愛読している好きな作家である。

 今回の作品は民話や物語りの世界を再構成して、枯れることの出来ない丈の長い草「草どん」がしっぽの短い子狐に語ることから始まる。

  傘地蔵、竹取物語、浦島太郎、龍の子太郎、九尾の狐などの子供時代に聞いたり読んだりしたお伽噺を違ったストーリーに再構築して話し聞かせる物語は、昔のことを思い出させながら、そのお伽噺を発展させた新しい話に引き入れられ、つい長時間読みふけってしまった。

 しかし物語は途中から交錯し、雲上雲下がひずみ始める。「草どん」は自分が天の神様に民草の間の物語を披露するお伽衆だったことを思い出し、天上では神々がしばらくお伽衆の話を聞いていなかったということで、「草どん」=福耳彦命を天上に呼び戻す。

 やがて「草どん」の居た場所が切り崩されて団地が出来ることになる。そして天上に戻った、「草どん」=福耳彦命の耳には殺伐とした言葉しか聞こえてこない。効率優先、結果第一の余裕のない社会では物語は消えてしまうのか?

 作者は、今回の本を書く前に、全国あちこちの民話を聞き歩いたそうで、語り継がないと消えてしまう民話を途絶えさせてはいけないという作者のメッセージがファンタジーの中に強く込められている。

 文芸評論家、縄田一男は「なんと素晴らしい一巻であることか。全読書人必読の一冊と言っていい。文学史に残る作品である。」と激賞している。

(この項終わり)

2018年2月19日 (月)

「竜と流木」、「陸王」を読んで

 去年(平成29年)は79冊の本を読んだ。一昨年は76冊だったので、月平均6~7冊読んだことになる。最近はあまり肩が凝らず2~3年以前に発行された本を読むことが多い。

 今年の正月も10冊近く読んだが、その中から篠田節子の「竜と流木」と池井戸潤の「陸王}について述べてみたい。

 
 (1)竜と流木         篠田 節子    2016年5月発行
  (2)陸王          池井戸 潤    2016年7月発行

 

(1) 竜と流木

Img_5947_2 篠田節子の本は「仮想儀礼」以来しばらく読まなかったが、最近「となりのセレブたち」「冬の光」を読んだ。そして今回最新作である「竜と流木」を読んだ。

 話の内容は、ある南の島で、水を浄化するウーパールーパーに似た可愛らしい生物ウアブが環境の変化によって変異し、思いがけない黒いトカゲに似た害虫になってしまう恐怖。

 一方島の古老たちの話として昔この近くに竜が住むという無人島があったが嵐と地震で海中に没したので、付近の島に流木に乗った無数の竜の子供が流れ着いていろいろな形や色のトカゲになって住民の生活を守り、共存しているという言い伝えを知る。

 主人公はこのウアブが生息している泉が開発によって干上がるというので、専門家を交えた保護団体を作り、少し離れた泉に移すことにしたのだが、それが黒いトカゲ状の生物が増えた原因になったことが分かった。

 しかしそれを駆除していく方法が銃で急所を狙って殺す以外になく、被害は急速に広がっていく。そして最終的にそれを根絶できるのはこの黒いトカゲを食べる生物を見つけて黒いトカゲのいる場所に向かわせることだった。

 昔からの言い伝えと環境変化による変異、そしてそれを収束させるのは、人間ではない自然の営み、そして昔からの自然との共生をする現地人の生き方の知恵などが、文明社会にどっぷりつかった我々との対比を際立たせている。

(2) 陸王

Img_6019_2 下町ロケット」を書いた池井戸潤の昨年ドラマ化された新作である。主人公は埼玉県行田市にある百年の歴史を持つ足袋作り業者で、従業員20名程度の「こはぜ屋」という零細企業の社長である。

 業績がじり貧になって行く中で、社長は足袋製造の技術を生かしたランニングシューズの開発を思い立つ。

 最初は社内の3人で試作品を作ることからのスタートだったが、紹介されたスポーツ店のインストラクターから走るとはどういう事かと問われて、足袋のように足にフィットして軽いシューズというコンセプトで作ることになった。

 試行錯誤しているうちに、シューズの靴底にあたるソールという部品が重要であることが分かってきた。ソールが薄すぎると直ぐにすり減ってしまうし、厚いと重くなって走りにくいということである。

 そのうちに倒産した零細企業主が繭で作ったソールの材料の特許を持っていることが分かり、探し出して技術顧問になって貰った。更に大手スポーツ会社に所属していて選手へのアドバイスなどをするシューフィッターとよばれる男が上司との考え方の違いから退職したことを偶然知り、アドバイザーとして協力して貰うことになった。

 そのようにして多くの人の協力で開発したシューズを、故障から再起を期してサポート契約をした選手が全日本のマラソンに出場することになったが、その直前新しいソールを作る機械が壊れて使用不能になってしまった。

厳しい企業経営の実態を従業員はじめ多くの人の協力で乗り越えていく、池井戸ワールド全開のロマンあふれる感動の一冊である。

(この項終わり)

2017年12月 1日 (金)

伊東潤の「武士の碑」、「西郷の首」を読んで

 作者伊東潤は、「西郷隆盛と明治維新三部作」として、下記の3作品を発行した。

 ① 西郷隆盛の側近だった村田新八の視点から描いた2015年7月発行の「武士の碑」。

 ② 西郷と袂を分かち、大久保側に付いた川路利良の視点からの2016年12月発行した「走狗」。

 ③ そして西郷の首を発見した男とその親友だった大久保利通を暗殺した男との二人の加賀藩士の視点から描いた2017年9月発行の「西郷の首」。

 上記の3作品によって明治維新とは何だったのか、西郷隆盛という人物はどう評価すればよいのかを問いかけている。    

 この3作品のうち、「走狗」は西郷への思慕からスタートし戊辰戦争を戦ったが、やがて西郷から離れて大久保側に付いて西南の役を戦い、警察機構を構築して初代大警視となった川路利良の話で、今年(2017年) 3月のブログで紹介しているので、今回は他の2作品について紹介したい。

「武士の碑(いしぶみ)」

Img_5813 西郷と大久保の後継者と目されていた村田新八は、岩倉使節団の一員として渡欧し、大久保らの帰国後もフランスに在住していたが、西郷下野の報を受けて急遽帰朝した。村田新八は以前から西郷と大久保との争いを仲裁していたので、何とかしようと思ったのである。西郷は鹿児島に帰っていたので、村田も故郷鹿児島に戻った。

 大久保たちの新政府は、明治9年に軍人と警察官以外は帯刀を禁ずる廃刀令と士族の家禄を公債証書で支給し家禄制度を廃止することなどの改革を行ったので、士族の物心両面で大きな打撃は大きく、その不満から熊本の神風連の乱、秋月藩の乱、長州萩の乱などが起きたがいずれも短期間で鎮圧された。

 しかし明治10年になって大久保の挑発に桐野利秋らが暴発し私学校生徒による火薬庫襲撃に端を発し西南戦争が始まった。

 当初薩軍は熊本鎮台を占領し、そこを橋頭保にして各地の士族の決起を待ち、中央政府と交渉するつもりだった。しかし激しい戦闘の末、薩軍は熊本鎮台を占領できず、田原坂の激闘などを経て撤退に撤退を重ね、鹿児島城山で最期を迎える。。その重苦しい話を処々に村田のパリ時代の挿話を挟んで緩和していく。

 そしてこの作品の裏に流れる重低音は「いかに死ぬべきか」ということであり、また最後の文にあるように武士の時代の終焉を告げるということだった。
 
「西郷の首」

Img_5627 三部作の最後の作品が「西郷の首」である。幕末の加賀藩は最大の外様藩だったが、藩論は統一されず当初幕府側に付いて尊攘派の人材を粛正し、それが仇となって後に新政府軍に属しても藩をリードしていく人物に恵まれず、新政府発足にあたっても指導的地位には就けなかった。

 加賀藩の足軽だった島田一郎と千田文次郎は幼馴染みだったが二人とも東北諸藩との戦いに従軍して北陸線戦で戦った。明治新政府が発足し、廃藩置県、徴兵令などにより新政府が日本全土を直接統治する体制になった。

 島田と千田はそれぞれ軍隊に入ったが、島田は軍隊に馴染めずやがて困窮した士族を救うために武装蜂起を考えるようになった。しかし明治10年に西南戦争が始まり、陸軍中尉になっていた千田文次郎は政府軍の一員として従軍し、城山での戦いで西郷隆盛の首を見つけ出してしまう。

 一方金沢で薩軍の挙兵を聞いた島田一郎らはそれに呼応して決起しようと同志に呼び掛けたが、武装蜂起に同意するものは少なく、そのうちに西郷の死を知って武装蜂起は諦め要人暗殺を考えるようになった。そして親友の千田文次郎の説得にも耳を貸さず紀尾井坂の変で大久保利通を暗殺してしまうのである。

 幕末から明治初期の動乱を脇役に甘んじた加賀藩の足軽だった二人の眼を通して、新政府側、反政府側それぞれの視点から明治維新は何だったのかとその功罪を描いた秀作である。

画面をクリックすると大きくなります

(この項終わり)

2017年11月10日 (金)

山の家でピザつくり       

 平成29年(2017)11月3日。所属クラブであるホームページの会のメンバー6人で講師のKさんの香林庵と名付けられた山の家に行き、そこでピザを作り、食べながら懇親会を催すことになった。

Pa01Pa02 Kさんは約20年前に茨城県常陸太田市の山中に600坪の山林を購入し、それを開拓して畑を作り、山小屋風の作業小屋を作り、ピザを焼く窯や竹炭を作る窯などをほとんど家族だけで作り上げたということである(写真は香林庵の建物とピザの窯〔向かって右側〕と竹炭を作る窯〔向かって左側〕)

Pa03 前夜の雨も上がり、好天の中を大甕駅から同じメンバーの車に同乗させて貰い、山道を登ること約30分弱で到着した。入口に通ずる道路は坂道が急だったので上れず、下の少し広い道路の隅に置いて数百メートルの小径を登ると開けた畑があり、そこが香林庵という山の家だった。(写真は入り口付近からの眺め)

Pa04Pa05Pa06 山の家は一部本職の手伝いを受けたそうだが、ほとんど素人で作ったという立派な建物である。中にあるピザの窯の前で、Kさんがすでに火を燃やして窯を温めてくれていた。通路に沿って菊がたくさん花をつけていた。(写真はメインの建物、火を燃している窯、東通路から眺めたメインの建物)

Pa07Pa08 前方は竹林で後方は松やクヌギなどの山林に囲まれ、裏の方にはシイタケを栽培する原木が立掛けられており、また蕨やタラの芽などの山菜を採る一隅がある。山の家に沿ってテーブルと腰掛の付いた庭テラスが設置されていて自然の光を浴び、そよ風を受けながら食事などが出来るようになっている。(写真は蕨の生える場所、広々とした庭テラス)

Pa09Pa10Pa11 その奥には大きなビニールハウス風のネットで囲まれたブルーベリー畑があり、食べきれないほど沢山の実がなるそうである。前方の畑には大根や白菜、ブロッコリーなどが植えられ、よく手入れされている。畑の先は竹林で、タケノコが取れるようになっており、自然の恵みを満喫できる山の家である。(写真はブルーベリー畑、野菜畑、竹林)

Pa12 一回り庭を見せて貰った後、早速ピザ作りを始めた。本格的にピザを作った人はKさんしかおらずその指導を受けて、料理教室に行った人やソバつくりをやった人がいたのでその人を中心にして、すでにミックスされた粉を使って生地を作ることから始めた。(写真は生地作り)

Pa13Pa14Pa15 生地を練り上げ、団子にしてしばらく発酵させ、その後めん棒で生地を広げる。次にソースを塗り広げて、ねぎ、トマト、ハム、ピーマン、サラミソーセージ、チーズなどをトッピングして窯に入れて焼くのである。(写真は丸めて発酵中の生地、めん棒で生地を伸ばしソースを塗り広げているところ、トッピング作業をしているところ、トッピング完了の生地)

Pa16 Pa17Pa16Pa19_3Pa20_2   トッピングしたピザ生地をパーラーという道具で窯に入れる。(写真はパーラーに粉をふりかけ右端の生地を乗せるところ、パーラーに乗せた生地2景、窯に入れたパーラー2景)

Pa21Pa22_2Pa23Pa24Pa25_2 焼けるまで数分待って、裏側が焼ければ出来上がりで皿に移す。それを準備した枚数だけ繰り返すので大変である。(写真は窯の中の生地、同じく焼け具合を見るところ、パーラーから皿に移すところ、出来上がったピザ2景)

Pa26 今回は12枚焼く予定で、途中火力が弱くなったので6枚終わったところで小休止にした。ちょうど昼近くなったので、外の庭テラスで飲み物やほかの食べ物を出して昼食になった。(写真はピザやその他の食べ物や飲み物)

Pa27Pa28Pa29 一休みした後、残りの6枚を焼き、その後、Kさんが作ったシイタケを頂き、ビールやワインを飲み、いろんな話に花を咲かせた。今日は風もなく、日の光を全身に浴びて幸せな気分に満ちた一日だった。(写真は焼いたシイタケ、のどかな苑内風景2景)

(この項終り)