« 迎賓館赤坂離宮・目黒雅叙園「百段雛まつり」見学記 | トップページ | 花畑・菜園便り(2) »

2017年3月22日 (水)

伊東潤作の「江戸を造った男」「走狗」 を読んで

 平成29年(2017)2月から3月にかけて伊東潤の小説を2冊読んだ。伊東潤の本は平成26年に「黎明に起つ」を読み始めてから「江戸を造った男」が10冊目、「走狗」が11冊目である。

 以前伊東潤が著した「横浜1963」「吹けよ風 呼べよ嵐」についての感想をホームページに書いた時も述べたが、伊東潤は2011年から2016年までの六年間に5回直木賞の候補に挙げられており、現在では歴史小説の第一人者の一人になったと思っている。

 今回の「江戸を造った男」と「走狗」は、初めの頃の生硬さがなくなり、読みやすい中にもいろいろなエピソードが盛り込まれて時間を忘れて読み進められた。

Img_3757 「江戸を造った男」は平成28年(2016)9月に発行された河村屋七兵衛(河村瑞賢)の一代記である。河村瑞賢については日本海を通る西回り航路を開拓した事しか知らなかったが、それは業績の一部で江戸時代初期の流通システムを整備し、江戸が世界有数の大都市として発展する仕組みを作り出したばかりでなく、新潟で金山を復興し、大阪の治水工事でコメの収穫を増やしたりして多大の功績をあげていたのだった。

 河村屋七兵衛は、4代将軍徳川家綱の時代の江戸城をはじめ江戸の町の三分の二を焼き尽くした明暦3年(1657)の大火の時に当時の最高実力者である保科正之に見い出され、江戸の新しい町造りに尽力し、また本業の木材の売買、供給により豪商になった。
 その後、老中稲葉正則の知遇を得て奥州仙台から江戸に送る廻米の東回り航路を開き、更に裏日本の酒田から遠く下関を経て、瀬戸内海を通り、大坂、下田、江戸に行く西回り航路を開いたのである。

当時の東回り航路は銚子から荷を川船に積み替え、利根川と江戸川を経由して廻米を送るという迂遠な方法だったので費用が高くつき、過積載や悪天候による遭難などによって25%も損米を出していた。それを城米廻漕専門の番所を4か所設け積み荷の安全性の確認と船の点検修理を行うこととし、銚子から海路を下田まで行き、そこから江戸に行く航路を開発するなどして安定して廻米を送れるようにした。

 また城米の運搬実績をもとにした報奨制度、遭難した場合の補償制度や規定を犯した場合の罰則を細かく決めるなどしたため、東回り航路の安全性が飛躍的に高まり、江戸市中にコメが安定的に供給されるようになり、食料の心配が軽減されたのである。

 東回り航路の成功により、次に北海の酒田方面の廻米も海路で江戸まで廻漕することを要請された。従来の方法は酒田から敦賀または小浜まで船で運びそこから琵琶湖北岸まで馬の背で運び、再び船に載せて大津まで運び、そこから陸路で大半の米は大阪で売りさばいている。江戸まで行かせるにはそれを伊勢の桑名まで運び、また船に乗せ替えて送るので、高価になりすぎて割に合わないのである。そのため赤間関(下関)回りの航路が開発されたが、海路が長いため多くの問題が発生し、損米の率が3割もあったのでほとんど使用されなかった。

 七兵衛は現地を回って従来の五百石積みの北前船が最大だったものをその倍の千石積みの船を多く作らせ、東回り航路では4か所だった城米廻漕専門の立務所という番所を10か所設け、東回りと同様に積み荷の安全性の確認、船の点検修理などを行えるようにし、廻漕請負業者を決め、損米率などにより評価を行うなどの整備を進めた。

 このような東回り、西回りの航路を確立したことにより東北の米が安定して江戸に届くようになり、そのころ江戸の人口は百万人を突破し、同時期のロンドンやパリをしのぐ世界一の大都市になったのはこのような流通網の整備ができたためで、七兵衛の大きな功績だった。

 その後、越後高田藩の要請により、新田開発と銀山開発。大阪の治水などに手腕を発揮し80歳の時、ときの将軍徳川綱吉に拝謁し、翌年武士に取り立てられ、元禄12年82才で亡くなった。

 七兵衛はこれらの事業を推進するにあたって、従来は元請となって自分の利益を確保し、実際の運用は請負業者に任せるていたので、それぞれの業者がやりいいと思う方法で運用していたものを、細部までの運用の仕組みを作り上げ規定化した。

 そしてそれを順守して実行できた場合には報奨する制度も導入し、従事する人々のやる気を促すようにした。また作り上げた仕組みから上前を撥ねるようなことはせずに、運用のすべてを指定する業者に任せたので、定められた仕組みで運用すれば安全に操業できるようになり、永続性のあるシステムとして長期間運用できたのである。

 

Img_3758 「走狗」は平成28年(2016)12月に発行され、伊東潤が「江戸を造った男」の次に著した長編小説である。主人公は幕末から明治の初めに活躍し、初代大警視(警視総監)として欧米の近代警察制度を日本で初めて構築し「日本警察の父」と呼ばれた薩摩藩出身の川路利長(かわじとしよし)である。

 川路は禁門の変の時、長州藩総督の来島又兵衛を狙撃して倒す戦功を挙げて西郷隆盛と大久保利通に知られるようになり、薩摩藩と幕臣の勝海舟や新選組の伊藤甲子太郎などとの連絡係を務めるようになる。

 明治維新後、西郷の招きで上京して邏卒総長に就任し、司法省の西洋視察団の一員として欧州各国の警察を視察し、その結果としてフランスの警察制度を参考にして日本の警察制度を作り上げた。明治7年には警視庁が創設され40才で初代大警視に就任した。

 川路は西郷に引き立てられて軽輩の身から新政府の要職に就くことができたが、フランスの警察制度を学ぶ過程で、「警察は国家権力を守ることが何物にも勝る、警察の長は常に権力者の犬でなければならぬ」と教えられ、帰国後それを忠実に実行していくことから「走狗」の題名になったのである。

 大久保と西郷は明治6年の朝鮮派遣使節の問題や富国強兵策と自由民権の推進で意見を異にし、西郷は政権から離れて鹿児島に帰るのだが、川路は今後の日本は国権を強化し富国強兵がまず必要であるとの認識があったため、情誼の厚い性格である大恩のある西郷から離れて冷静に国権強化策を進めて行く大久保の考え方に傾斜して西郷から離れていくのである。

 その後明治7年に江藤新平による佐賀の乱、明治9年の熊本神風連の乱、萩の乱などの旧士族による反乱が続くが中央政府の平民出身者を主体にした軍隊に鎮圧され、明治10年には西南戦争により西郷は亡くなり日本は近代国家の道を進むのだが、その間、川路は様々な謀略を行い大久保の右腕のような存在になって行く。

しかし西郷の国民的人気は死後も続き、西郷を切り捨てた大久保、川路らの評判は悪くなった。その時期には同じ薩摩藩出身で西郷を敬慕していたが川路と同様に大久保陣営に参加していた黒田清隆が、酒乱の末妻を殺すという事件が起きた。その時大久保は不在だったので、川路は独断で黒田の妻は病死として処理をし、そのことで大久保との間もぎくしゃくしてしまう。そんな中、大久保が明治11年に石川県士族により暗殺される事件が起こった。西郷が西南の役で戦死してから1年も経たない時である。

 大久保という後ろ盾を失った川路は薩摩閥に代わって勢力を伸ばし始めた長州閥に押されてフランスに2度目の外遊をし、捲土重来を期する積りだったが、病を得て帰国しそのまま亡くなった。明治12年、46才だった。

 この本の著者である伊東潤は“幕末から明治初期の動乱時代を駆け抜けた川路利良は西郷や大久保の、そして自らの野心の走狗だったが、警察組織の創設という偉大な業績を残した。―わしは日本という国の走狗だったのだ。それこそが、利長が最後にたどり着いた誇りだった。”と最後のページに記している。

« 迎賓館赤坂離宮・目黒雅叙園「百段雛まつり」見学記 | トップページ | 花畑・菜園便り(2) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/2419082/70006551

この記事へのトラックバック一覧です: 伊東潤作の「江戸を造った男」「走狗」 を読んで:

« 迎賓館赤坂離宮・目黒雅叙園「百段雛まつり」見学記 | トップページ | 花畑・菜園便り(2) »