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2017年1月 8日 (日)

「戦争まで---歴史を決めた交渉と日本の失敗」を読んで

 平成28年(2016)12月7日(日本時間12月8日)は日米開戦から75年になり、この開戦の月に合せて12月27日に日本の現職首相が米大統領と共に真珠湾を訪れる事になった。

 それに伴って7日付けで朝日新聞の耕論欄に「1941 決意なき開戦」と云う本を著した歴史研究家の堀田江理氏の「責任不明確 同じ問題いまも」という文と早稲田大学教授の鎮目雅人氏の「亡国に至った強兵一本の道」という文が掲載された。

 堀江氏の文の要旨は日米戦が圧倒的に不利だったのは明白だったのに日本は要所要所で戦争回避とは異なる選択を続け、自ら選択肢を狭めほぼ勝算の無い戦いになだれ込んだ。政府や軍部にも開戦反対をほのめかす人はいたが、身を挺して戦争に歯止めをかけようとする指導者はおらず、指導者層にことごとく当事者意識が欠けていた。

 そして福島第一原発の事故も新国立競技場の建設も事後処理や決定過程が75年前と酷似している。豊洲市場の盛り土の問題も小池都知事は「流れの中で、空気の中で進んでいった」と説明しているが、責任の所在がわからない点で似ている。しかし判断ミスや勇気の欠如は自然発生するわけでは無く、責任はあくまでも人間にある。といっている。

 また鎮目氏の要旨は幕末から明治の日本は従来の価値観に固執せず異質な価値も受け入れ、吸収して行く柔軟性が日本を存亡の危機から救った。欧米と肩を並べる手段が「富国強兵」であり、その基盤が「殖産興業」だった。日清、日露戦争、第一次世界大戦を経て、日本の地位は大きく向上した。

 しかしこの段階になって「富国」「強兵」の間で揺れた日本は最終的に強兵一本、「つまり「軍事大国」への道を選択し、中国と米国を相手に同時に戦争をするに至り、敗戦によりすべてを失った。

戦後は強兵を捨てて富国に注力した結果が類の無い高度経済成長であり、その経験が経済開発のモデルとなり、環境汚染や温暖化などの地球規模の問題について主導的役割を果たすようになった。いまEU離脱の選択やトランプ氏の登場によって世界経済の変化を憂える声があるが今こそ世界の人々が学んでほしいのは強兵が亡国になり、富国が成長に結びついた日本の経験である。といっている。

Img_3556 上記の文を読んだ頃、昨年(2016)8月に発行された「戦争まで(歴史を決めた交渉と日本の失敗)」を読んだ。

 著者の加藤陽子氏は東大教授で専攻は日本現近代史である。この本は一昨年12月から昨年6月まで池袋のジュンク堂で主に高校生に講義をした内容を再構成して大幅加筆したもので、高校生ばかりでなく社会人、定年後の人でも全て本を届けたい対象の人であると「はじめに」という前書きで述べている。

 本の表紙に「かって日本は、世界から『どちらを選ぶか』と三度問われた。より良き道を選べなかったのはなぜか」と書いてある。その一つは満州事変に対し、昭和7年(1932)に国際連盟によって派遣されたリットン調査団の報告書に対する交渉と選択であり、二つ目は昭和15年(1940)の日独伊三国軍事同盟の締結であり、三つ目は昭和16年(1941)の日米交渉での過程と選択である。

① リットン報告書

 これは昭和6年(1931)の満州事変について中国が国際連盟に提訴したため、事実調査のためイギリスの貴族リットン卿を団長とする調査団が日本と中国に派遣され、その内容を翌昭和7年(1932)に国際連盟に提出した報告書についてである。

 その内容は十カ条の原理としてまとまられているが、主要な2点について①昭和6年(1931)の満州事変勃発の関東軍の行動は合法的な自衛措置とは認められないが現地の将校が自衛の行動を取ってしまったことは否定しない。②満州国は民族自決によって出来た国では無い、しかし将来における満足すべき制度は何ら過激な変更をせずとも現制度より進展させる事が出来る。また新政府樹立には(日本などの)専門家の助力が必要である。更に日本人に満州における居住圏と商租権を認めるという配慮をしている。

 しかし日本側は①は自衛権の行使だ。②は現地の中国人や満州族らの民族自決によって生まれた国家だ。といって反論している。そして新聞の見出しは「全編随所に日本の容認し得ざる記述 我が対満策を終始否定す」というもので「報告書は満州国の存在を認めず」と云う方向に国民は誘導された。

 国際連盟で松岡洋右全権はイギリスなどと折衝して妥協案をいろいろ考えたが、中国国民政府と直接に外交交渉を考えていた内田康哉外相に強硬に反対され日本は昭和8年(1933)3月に連盟脱退したのである。

 この章を読むとリットン報告書は云うべきところは云い、しかし妥協できそうな文言で日中両国が交渉できそうな報告書だったが、国民には「報告書は満州国の存在を認めず」と云うその一部をすべてである様に誘導、周知されたことで、リットン報告書は中国に肩入れしているという世論が形成され、また要人に対するテロ(5・15事件の犬養首相暗殺、血盟団事件の団琢磨暗殺)が頻発し、元老や穏健な思想の政治家が軍部に反論するのが困難になっていた事などの要因が重なって国際協調路線から外れて行った事が良く判る。

② 日独伊三国軍事同盟の締結

 昭和15年(1940)9月に結ばれたアメリカを仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟は交渉開始から締結まで僅か20日間で結ばれた「異様」に早い条約だった。このときヨーロッパではナチス・ドイツがポーランド、ベルギー、オランダに侵攻し、さらにパリへも無血入城し、ロンドンも空爆にさらされており、アメリカがどのような態度を取るかが焦点になっていたのである。独伊側が急いだのは、日本と同盟を結ぶことでアメリカの介入を阻止しようとすることだった。

 それに対し、日本の考え方はこの軍事同盟によってアメリカの態度が硬化する恐れがあるが、それよりも条約第2条に「ドイツ国およびイタリア国は、日本国の大東亜における新秩序建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重す」とある様に、独伊が勝利する前提で、ドイツの東南アジア植民地の再編成を封じるためという目的だった。

 要するに日本は三国軍事同盟を結ぶことによって本来の目的であるアメリカがどう考え行動するかそれがどのような事態を引き起こすかを真剣に検討せずに、その時点での独伊の勝利が目前にあると思われたので、アメリカは参戦しないだろうという希望的観測で深く考えずに、戦後処理をどうするかと云うことばかり考えていたのである。

③ 昭和16年(1941)の日米交渉での過程と選択

 最後は昭和16年(1941)4月から始まった日米の直接交渉についてである。これは、日本側はワシントンを通じて日中戦争の打開を図ろうとし、アメリカ側は対独作戦展開のための時間稼ぎをする思惑で始めたのである。

 当時の情勢は昭和15年(1940)7月に援將ルート撲滅のために日本軍の北部仏印進駐により、アメリカは石油と屑鉄の禁輸措置を取っていた。しかし屑鉄は3ヶ月間許可制とし、石油はオクタン価の高い一部の石油だけの禁輸とした限定的なものだった。昭和15年(1940)9月日独伊三国軍事同盟締結、昭和16年(1941)4月には日ソ中立条約調印、昭和16年(1941)6月独ソ戦開始などが続いていた。交渉の当事者はハル国務長官と野村駐米大使間で太平洋戦争直前まで行われた。

 交渉の主テーマは日中事変の終結に向けた諸問題をどう解決して日米間の緊張を和らげるかと云う事だったが、その過程で日本の南部仏印進駐により、アメリカ側は石油の全面的な禁輸に踏み切ったために事態は緊迫して行った。

 その後も近衛首相とルーズベルト大統領との首脳会談の動きが日本国家主義団体の反対運動で沙汰やみになったり12月6日にルーズベルト大統領が天皇に宛てた親書が陸軍により12時間留め置かれたことなどがあり、最終的に陸軍が中国からの撤兵に妥協しなかった事により日米交渉は頓挫することになった。

 南部仏印進駐について日本側としては石油の全面的な禁輸は無いだろうと想定していたが、アメリカ側では日本は強硬策を取れば屈服するだろうとの考え方をする勢力が強くなり、双方の考え方の違いが日米交渉の失敗の原因だった。
 この交渉を通じてアメリカは日本の暗号を殆んど解読していたといわれているが、日本もアメリカの暗号を70~80%解読していた。

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 この本を読んで感じた事は、これらの交渉を行った当事者が世界の他の国の国情を織り込みながら真剣に向き合って進めていた過程が国民に知らされず、日本に都合が良い部分のみを知らされ、国連をはじめ米英が日本を圧迫している面を強調したため、新聞などのジャーナリズムも冷静な報道をせずそれを煽りたてるので、世論は強硬な方向に誘導されて行ったのである。

  また内閣総理大臣が閣僚の任免権を持たず、内閣総辞職をして再度組閣するしか無かった事、軍の統帥権により内閣が軍の独走を抑えられなかった事など制度上の欠陥があった。更に2・26事件などによって政府要人が暗殺されるので口をつぐむ指導者も多くなっていった。

  一方軍部では彼我の戦力が圧倒的に劣ることを知っていたにもかかわらず陸海軍の腹を割った冷静な戦略が立てられず、南部仏印進駐による石油の全面的な禁輸をきっかけとして無謀な戦争に突入して行った過程が良くわかった。同時に自分の方の都合ばかりに固執するのではなく、交渉相手の事情やその周辺の国々の考え方、国力を冷静に分析し、選択肢を幾つも用意しておくことの重要性が欠けていたことを痛感した。

 また冒頭の堀田江理氏と鎮目雅人氏の論文の要旨を見ると日本の意思決定に至る過程が75年前とあまり変わらず、真剣に必要な条件を取り上げて討議をする事無く、全体の流れに乗って物事を決める無責任体制が続いている事が判る。

 敗戦後71年が経ち、イギリスのEU脱退、アメリカのトランプ大統領の出現、中国の強大化による国際摩擦の増大、保護主義の拡大など世界の価値観やシステムが大きく変わろうとしている現在、日本も従来の延長では無く、自主性を持って変らねば世界から取り残されてしまう。安部内閣は今後どのような針路を取り、行動して行くのか注視して行かなければならない。

(この項おわり)

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