2018年1月17日 (水)

初詣と白鳥

 平成30年(2018)の年明けには元旦に常陸三ノ宮である水戸市の吉田神社に、そして一月二日には常陸二ノ宮である那珂市の静神社に参拝した。(因みに常陸一ノ宮は鹿嶋市の鹿島神宮である)                                       

1.吉田神社

 吉田神社は我が家から約2㎞ほど離れたところにあり、ウオーキングで往復6,000歩と手ごろな距離である。しかし元日に参拝するのは昨年に続いて2回目で、それ以前には元日はお酒を飲んでテレビを見たり年賀状を読んだりして家に居るのが常だった。

 話は変わるが、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の黒羽雲厳寺の段に、仏頂和尚という芭蕉の参禅の師が雲厳寺に居るので、はるばると逢いに行く話が出てくる。その後、仏頂和尚が鹿島の根本寺という寺の住職をしているということを聞いて芭蕉が訪ねて行き、「鹿島詣」という紀行文を著している。ずっと以前にその足跡を訪ねると共に、常陸一ノ宮の鹿島神宮に初詣をしようと1月3日に鹿島神宮と根本寺まで行ったことがある。

 しかしその時は参拝まで1時間待ちとかいうことで、鹿島神宮の初詣は諦め、根本寺を訪問しただけで帰宅した。それ以来、新年の初詣は1月2日に常陸二ノ宮の静神社に行くことに決めていた。

Img_5905_3Img_5920_2Img_5952 水戸市の吉田神社は日本武尊が東夷平定の帰路この地で兵を休まれた古事にのっとり、この地に神社を創建して日本武尊を祭神として祀っている。正面の大鳥居をくぐって長い石段を上がった左手に日本武尊が四方を展望されたという朝日三角山という遺蹟がある。(写真は正面入り口、参道に続く石段、日本武尊御遺蹟の碑)

Img_3625_2Img_5906_2Img_5907 石段を上がると平地になっており、その先に隋神門があるが、階段を登り切ったところから参拝者の列が続いている。拝殿の近くにはいろいろなおみくじが売られていた。(写真は隋神門に続く参詣者の列、拝殿前の参拝者、おみくじ)

Img_5908_2Img_5909Img_5910 Img_5911  拝殿の内部を眺め、更に境内をぐるりと回って本殿を見る。神楽殿には祭礼の時町中を練り歩く神輿とササラが展示されていた。拝殿の横にあるお札やお守りの授与で賑わっている参集殿を抜けて社務所に出る。(写真は拝殿内部、本殿2景、神楽殿)

Img_5912Img_5915Img_5918Img_5919 社務所の広間にあるガラス戸を取り払って小学生を含めた保存会の人たちが、小太鼓や笛でオカメとヒョットコの舞を賑やかに参詣のために並んでいる人たちの列に向かって演じていた。近くで二人の女の子が真剣な表情で見つめていた。(写真はオカメとヒョットコの舞3景と見物の女の子)

2.静神社と古徳沼

 次の1月2日に例年通り常陸二ノ宮の静神社に参拝した。この神社は天保12年(1841)に、火災で焼失していた社殿を徳川斉昭が再建したものである。常陸風土記の久慈郡の条には「静織(しどり)の里」と記されているそうで、それが神社名の由来になったといわれ、白い織物が織られていく様は白蛇のようだということで、静神社のお使いは白蛇であるといわれ、絵馬堂には白蛇の絵馬が多く奉納されている。

Img_5922Img_5930Img_5929 この日の参詣者の列は石段を上がりきる前から並んでいた。去年より列は長いようだ。
 (写真は石段の先の坂道を歩く参詣者の列、神門近くの参詣者の列、拝殿間近の参詣者たち)

Img_5923Img_5925Img_5924 神門を過ぎて拝殿で拝礼する。その後、本殿の周囲を巡り、まだ長く続いている参詣する人の列を見ながら帰路に着いた。(写真は本殿2景、おみくじを読む人たちなど)

Img_5931Img_5932Img_5934Img_5935_2 静神社に参拝した後は近くの古徳沼で白鳥を眺めるのが習慣になっている。
 平成28年の白鳥飛来数は146羽で、最大飛来数は平成2年の238羽だそうである。平成29年は100羽以上にはなりそうであるがまだ判らない。以前は10時と14時半に絵付けをしていたそうで、その時間帯になると今でも白鳥が多く集まってくるらしい。因みにこの日に訪れたのは昼頃だったので白鳥はあまり居なかった。(写真は古徳沼4景)

3.常照寺池

 水戸の吉田神社から少し離れたところに、旧吉田城址の後地に出来た常照寺という寺がある。その寺の東側の湿地に常照寺池という溜池がある。以前は蛍が生息している池ということで、ネットで調べるとその活動状況が判ったが、最近は何も発信されていない。折角活動していたのにどうなっているのだろうか?応援団としては歯がゆい次第である。

Img_5901Img_5904_2Img_5902   この池は小生のウオーキングコースとして週に一回 は訪れている。今は白鳥が飛来しているので楽しみである。
 先日数えたら15羽飛来していた。 餌を与えている人も居られるようで、氷が張っていない時は金網のそばまで来ていることがある。
 岸辺に氷が張ると氷が張らない場所に移動している様子だが、元日に吉田神社に参拝する前に立ち寄ったら氷の上を歩いていた。(写真は元旦の氷上にいる白鳥たち3景)

Img_5838Img_5840Img_5850Img_5852_2Img_5857 それ以前に訪れた時に撮影した写真や、その後1月6日に氷が解けた時の白鳥と合わせてアップしたい。小生の馬鹿チョンカメラではあまりうまく撮れなかったが雰囲気だけは味わえると思う。(写真は常照寺池の白鳥5景)

(写真をクリックすると大きくなります)

(この項終わり)

2017年12月24日 (日)

花畑・菜園便り(8)

 「花畑・菜園便り」の10月以降12月迄の花畑・菜園の報告である。

1.花畑

Img_5882Img_5630Img_5883Img_5884 10月が過ぎると花畑は淋しくなり、9月の残りの花が咲いているだけであるが、芝桜の狂い咲きが彩を添えている。他にはコキアが赤く色づいている。12月になると芝桜とパンジーだけの淋しい花畑になってしまったが、玄関わきにある万年青(おもと)は赤い実をつけた。(写真はピンクの芝桜、コキア、万年青2景)

Img_5633Img_5881Img_5866Img_5868 樹木では道路側の柿の木の隣に植えたピラカンサと南天が赤い実をつけている。もう1本の柿の木が物置の近くにあるが両方とも渋柿でムクドリやスズメ、カラスなどが来て食べている。ぶよぶよになると甘くなるらしい。カキの実がなくなるとピラカンサの実を食べ、その後南天の実を食べる。食べる順番が決まっているらしい。(写真はピラカンサ、南天、柿の木2景)

Img_5848Img_5887 道路に面した花畑の場所には黄色のパンジーを植え、隣には赤いチューリップの球根を植えてあるがまだ地下で生育している段階である。また次の畝にはナデシコの苗が植えてある。次の次の畝にはグラジオラスの球根が植えてあるが、これもまだ地表には出ていない。しかし来春の目覚めの用意はしてあるのである。(写真はパンジーとナデシコ苗)

Img_5837_3Img_5886 花壇には石竹、ストックの苗を植え、霜よけのカバーをした。ルピナスの苗も植えた。花壇の方も、もう冬の寒さの中で、花は春までお休みである。(写真は石竹苗、ルピナス苗)

2.菜園

Img_5638Img_5830Img_5832Img_5834Img_5833 菜園の方は9月に苗を植えたレタス、白菜、種を蒔いた大根が収穫時期である。(写真は収穫前のレタス、白菜2景、大根2景) 

Img_5829Img_5831Img_5635Img_5836Img_5885 ブロッコリーはもう少し後の収穫になる。ソラマメは箱で芽が出たものを畑に植え替えた。10月にはまだ小さかったが12月になるとだいぶ大きくなった。他に植えてあるのはイチゴ、ネギ、玉ねぎだけである。シートハウスの中にあるのは花の苗の残り分だけである。これからの冬の農作業は、来年春先のジャガイモの種芋を植える場所を掘り返すだけである。(写真はブロッコリー2景、ソラマメ2景、菜園全景)

(この項終わり)

2017年12月 6日 (水)

2017年 塩原、鬼怒川の紅葉(2)

② 鬼怒川の紅葉

 翌日「日光人形の家美術館」に行く。東武ワールドスクウェアが近くにあるが、ここには以前訪れたことがあり、また午後早めに帰宅することになったので、あまり時間を取らないところに行くことにしたのである。

Img_0001_3Img_5775Img_5776Img_5785Img_5787 「日光人形の家美術館」は東武鬼怒川線の鬼怒川公園駅近くにある。天気は良く、庭園の木々も紅葉していてきれいだった。ここの美術館には日本人形やヨーロッパの人形などの創作人形が約450体展示されている。(写真は入場券、美術館入口、庭園の木々3景)

Img_5777 入口は2階で受付、売店や喫茶室がある。売店の展示品を陳列する一番上の棚の開いている場所があり、そこに猫が我が物顔で座っていた。1階が日本人形で3階が西洋のドールの展示である
(写真は売店の展示品の間にいる猫)

Img_5779Img_5780Img_5781_2Img_5782Img_5783Img_5783_2 以前河口湖ミューズ館で見た与勇輝(あたえゆうき)に師事した人の作品というのがあった。師匠によく似た作風だった。他にも人形作家の名前を書いた創作人形がたくさんあった。

 人形のことはよく判らないが撮影OKということだったので、西洋と日本の人形の目を引いたものを各3点ずつ写した。(写真は展示品6景)

Img_5788Img_5789Img_5791Img_5792Img_5793Img_5794Img_5795Img_02Img_01 人形美術館から近くにある鬼怒川公園に行く。

あまり広くはないがここのモミジは黄色も多くあり、逆光に透けて見える黄色で、林中が明るく染まるような感じがした。

 赤いモミジも紅葉真っ盛りで十分に堪能できた。見る人が少なかったのはちょっと勿体ない気がした。この公園には鬼怒川温泉で最初に開設された公共温泉浴場である鬼怒川公園岩風呂がある。ネットの写真を転載した。(写真は鬼怒川公園の黄・紅葉7景、岩風呂入口、露店岩風呂)

 帰りは国道121号から461号に出て119号を通り、日光宇都宮道路の大沢ICから東北自動車道を通り北関東道で自宅に戻った。

(この項終わり)

2017年 塩原、鬼怒川の紅葉(1)

① 塩原の紅葉

 平成29年11月15日鬼怒川に妻と一泊旅行をした。以前から東急不動産を千株持っており、半期ごとにリゾートホテルの宿泊優待券やゴルフ場の優待券を贈ってくるが優待率もたいしたことが無いので使用することはなかった。ところが今回は3年以上連続して株券を保有している株主には5千円相当のカタログギフトが同時に贈られてきたので、その中のリゾート施設利用券を申し込み、東急ハーベストクラブ鬼怒川に行くことにしたのである。

 行程は北関東自動車道の水戸南ICを出発して東北自動車道に入り、西那須野・塩原ICで降り、国道400号線を通って塩原に行き、日塩もみじラインを通って鬼怒川に行くコースである。今年の紅葉は例年より早めで日塩もみじラインはもう遅いようだった。

 塩原の入口にある「湯の香しおばら」という道の駅にある農村レストラン「関の里」で天もりそばを食べる。栃木県の新そばスタンプラリーに参加している店でうまいそばだった。

Img_0002Img_5747Img_5733Img_5729Img_5728Img_5744 塩原に入り、箒川を堰き止めて出来た塩原ダム湖に架かっているもみじ谷大吊橋に行く。全長320メートルありワイヤーで支える歩道吊橋では日本一だそうで、ずいぶん揺れも大きかった。紅葉は終わりに近かったがまだ赤や黄色の木々が眺められた。(写真は渡橋券、大吊橋入口、吊橋からの入口方面2景、塩原ダム湖2景)

Img_5742Img_5736Img01Img_5737Img_5732Img_5741_2  橋の先は塩原ダム公園として整備され、散策路や塩原ダムまでの遊歩道などが整備されており、最近は恋人の聖地として平成25年(2013年)に吊橋の橋桁とクマタカの雄と雌の木彫りの像を建てたものが認定されたそうである。(写真は塩原ダム公園6景)

Img_5748_2Img_5749Img_5750Img_5751Img_5752 箒川に沿った国道400号線の旧道は回顧旧道とか大正浪漫街道とか呼ばれているが、この道はまだ紅葉真っ盛りだった。(写真は大正浪漫街道5景)

Img_5755_2Img_5756Img_5754Img_5757Img_5753 途中の「連珠の滝」の前に「不如帰(ほととぎす)」で知られた徳富蘆花の文学碑が置かれている。2015年に認定されたものである。このあたりの紅葉は素晴らしく時間があればゆっくり歩いてみたい街道だった。(写真は徳富蘆花文学碑、連珠の滝、大正浪漫街道3景)

Img_5758Img_5759Img_5760Img_5761Img_5762_4Img_5763 日塩もみじラインは矢張りすっかり葉が落ちて冬の気配だった。川治温泉の入り口あたりからやっと紅葉が眼に入るようになったが、陽は傾きかけており休む間もなく東武ワールドスクウェア駅近くの東急ハーベストクラブ鬼怒川に向かった。(写真は日塩もみじライン川治温泉降り口付近5景、東急ハーベストクラブ鬼怒川外観)

(以下次号)

2017年12月 1日 (金)

伊東潤の「武士の碑」、「西郷の首」を読んで

 作者伊東潤は、「西郷隆盛と明治維新三部作」として、下記の3作品を発行した。

 ① 西郷隆盛の側近だった村田新八の視点から描いた2015年7月発行の「武士の碑」。

 ② 西郷と袂を分かち、大久保側に付いた川路利良の視点からの2016年12月発行した「走狗」。

 ③ そして西郷の首を発見した男とその親友だった大久保利通を暗殺した男との二人の加賀藩士の視点から描いた2017年9月発行の「西郷の首」。

 上記の3作品によって明治維新とは何だったのか、西郷隆盛という人物はどう評価すればよいのかを問いかけている。    

 この3作品のうち、「走狗」は西郷への思慕からスタートし戊辰戦争を戦ったが、やがて西郷から離れて大久保側に付いて西南の役を戦い、警察機構を構築して初代大警視となった川路利良の話で、今年(2017年) 3月のブログで紹介しているので、今回は他の2作品について紹介したい。

「武士の碑(いしぶみ)」

Img_5813 西郷と大久保の後継者と目されていた村田新八は、岩倉使節団の一員として渡欧し、大久保らの帰国後もフランスに在住していたが、西郷下野の報を受けて急遽帰朝した。村田新八は以前から西郷と大久保との争いを仲裁していたので、何とかしようと思ったのである。西郷は鹿児島に帰っていたので、村田も故郷鹿児島に戻った。

 大久保たちの新政府は、明治9年に軍人と警察官以外は帯刀を禁ずる廃刀令と士族の家禄を公債証書で支給し家禄制度を廃止することなどの改革を行ったので、士族の物心両面で大きな打撃は大きく、その不満から熊本の神風連の乱、秋月藩の乱、長州萩の乱などが起きたがいずれも短期間で鎮圧された。

 しかし明治10年になって大久保の挑発に桐野利秋らが暴発し私学校生徒による火薬庫襲撃に端を発し西南戦争が始まった。

 当初薩軍は熊本鎮台を占領し、そこを橋頭保にして各地の士族の決起を待ち、中央政府と交渉するつもりだった。しかし激しい戦闘の末、薩軍は熊本鎮台を占領できず、田原坂の激闘などを経て撤退に撤退を重ね、鹿児島城山で最期を迎える。。その重苦しい話を処々に村田のパリ時代の挿話を挟んで緩和していく。

 そしてこの作品の裏に流れる重低音は「いかに死ぬべきか」ということであり、また最後の文にあるように武士の時代の終焉を告げるということだった。
 
「西郷の首」

Img_5627 三部作の最後の作品が「西郷の首」である。幕末の加賀藩は最大の外様藩だったが、藩論は統一されず当初幕府側に付いて尊攘派の人材を粛正し、それが仇となって後に新政府軍に属しても藩をリードしていく人物に恵まれず、新政府発足にあたっても指導的地位には就けなかった。

 加賀藩の足軽だった島田一郎と千田文次郎は幼馴染みだったが二人とも東北諸藩との戦いに従軍して北陸線戦で戦った。明治新政府が発足し、廃藩置県、徴兵令などにより新政府が日本全土を直接統治する体制になった。

 島田と千田はそれぞれ軍隊に入ったが、島田は軍隊に馴染めずやがて困窮した士族を救うために武装蜂起を考えるようになった。しかし明治10年に西南戦争が始まり、陸軍中尉になっていた千田文次郎は政府軍の一員として従軍し、城山での戦いで西郷隆盛の首を見つけ出してしまう。

 一方金沢で薩軍の挙兵を聞いた島田一郎らはそれに呼応して決起しようと同志に呼び掛けたが、武装蜂起に同意するものは少なく、そのうちに西郷の死を知って武装蜂起は諦め要人暗殺を考えるようになった。そして親友の千田文次郎の説得にも耳を貸さず紀尾井坂の変で大久保利通を暗殺してしまうのである。

 幕末から明治初期の動乱を脇役に甘んじた加賀藩の足軽だった二人の眼を通して、新政府側、反政府側それぞれの視点から明治維新は何だったのかとその功罪を描いた秀作である。

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(この項終わり)

2017年11月17日 (金)

2017年 茨城県歴史館の秋

 平成29年11月9日に、水戸市にある茨城県立歴史館で開催している「志士のかたち」という特別展を見に行った。

Img_5713 茨城県立歴史館は茨城県の歴史に関する資料を収集、保存、調査研究してその結果を広く一般県民に公開するための施設で、文書館と博物館の機能を併せ持っており、常設展では茨城の歴史についていろいろな資料で分かり易く説明している。

 また2か月に1回程度の割合でテーマ展、特別展を開催しており、今回は大政奉還から150年目にあたるということで、「志士のかたちー桜田門、天狗党、そして新選組-」という茨城県に関係のある幕末の志士に関する特別展である。

Img_5714 内容は桜田事件絵巻や錦絵、関連書類などや近藤勇の書簡、近藤とともに新選組局長だった水戸尊攘派出身の芹沢鴨暗殺の書類、水戸天狗党絵巻、武田耕雲斎の甲冑、西郷隆盛の書簡、大久保利通の日記など盛り沢山である。出口に新選組の法被を着て写真撮影ができる場所があった。

 丁度「幕末の水戸藩」という本を、表装製本まで自分でやって出版したばかりだったので、大いに関心をもって見ることが出来た。


ImgImg_5701_2Img_5704Img_5710Img_5711Img_5706 またこの時期は「歴史館いちょうまつり」が行われ、黄色く色づいた広い庭園のいちょう並木の下で各種イベントが行われる。今年のいちょうは例年より黄葉が早く進んでいるようで、訪問した日はだいぶ散り落ちた葉が多いように感じられた。

Img_5719Img_5720Img_5721Img_5724 特別展を見に行ったのは朝早い時刻だったので、いちょうを見る人は少なかったが、昼近く特別展の帰りに眺めたころはだいぶ見る人も増えてきていた。明るい日差しの下、まだまだ太陽の光を浴びて輝く黄色が映えるいちょうの下で遊ぶ園児たちや、訪れた人たちは満足そうだった。

Img_5698Img_5725Img_5726Img_5697Img_5699_3Img_5700  いちょう並木から坂を降りたところに水車小屋があるが、その周辺にある山もみじは真っ赤に色づいており、あまり知られていない紅葉が見られる場所である。

Img_5695 Img_5694Img_5693Img_5696 水車小屋から偕楽園西門に続く広い遊歩道があり、歴史館と偕楽園をつないでいるが、ここにも紅葉の木々が点在しており目を楽しませてくれている。

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(この項終わり)

2017年11月10日 (金)

山の家でピザつくり       

 平成29年(2017)11月3日。所属クラブであるホームページの会のメンバー6人で講師のKさんの香林庵と名付けられた山の家に行き、そこでピザを作り、食べながら懇親会を催すことになった。

Pa01Pa02 Kさんは約20年前に茨城県常陸太田市の山中に600坪の山林を購入し、それを開拓して畑を作り、山小屋風の作業小屋を作り、ピザを焼く窯や竹炭を作る窯などをほとんど家族だけで作り上げたということである(写真は香林庵の建物とピザの窯〔向かって右側〕と竹炭を作る窯〔向かって左側〕)

Pa03 前夜の雨も上がり、好天の中を大甕駅から同じメンバーの車に同乗させて貰い、山道を登ること約30分弱で到着した。入口に通ずる道路は坂道が急だったので上れず、下の少し広い道路の隅に置いて数百メートルの小径を登ると開けた畑があり、そこが香林庵という山の家だった。(写真は入り口付近からの眺め)

Pa04Pa05Pa06 山の家は一部本職の手伝いを受けたそうだが、ほとんど素人で作ったという立派な建物である。中にあるピザの窯の前で、Kさんがすでに火を燃やして窯を温めてくれていた。通路に沿って菊がたくさん花をつけていた。(写真はメインの建物、火を燃している窯、東通路から眺めたメインの建物)

Pa07Pa08 前方は竹林で後方は松やクヌギなどの山林に囲まれ、裏の方にはシイタケを栽培する原木が立掛けられており、また蕨やタラの芽などの山菜を採る一隅がある。山の家に沿ってテーブルと腰掛の付いた庭テラスが設置されていて自然の光を浴び、そよ風を受けながら食事などが出来るようになっている。(写真は蕨の生える場所、広々とした庭テラス)

Pa09Pa10Pa11 その奥には大きなビニールハウス風のネットで囲まれたブルーベリー畑があり、食べきれないほど沢山の実がなるそうである。前方の畑には大根や白菜、ブロッコリーなどが植えられ、よく手入れされている。畑の先は竹林で、タケノコが取れるようになっており、自然の恵みを満喫できる山の家である。(写真はブルーベリー畑、野菜畑、竹林)

Pa12 一回り庭を見せて貰った後、早速ピザ作りを始めた。本格的にピザを作った人はKさんしかおらずその指導を受けて、料理教室に行った人やソバつくりをやった人がいたのでその人を中心にして、すでにミックスされた粉を使って生地を作ることから始めた。(写真は生地作り)

Pa13Pa14Pa15 生地を練り上げ、団子にしてしばらく発酵させ、その後めん棒で生地を広げる。次にソースを塗り広げて、ねぎ、トマト、ハム、ピーマン、サラミソーセージ、チーズなどをトッピングして窯に入れて焼くのである。(写真は丸めて発酵中の生地、めん棒で生地を伸ばしソースを塗り広げているところ、トッピング作業をしているところ、トッピング完了の生地)

Pa16 Pa17Pa16Pa19_3Pa20_2   トッピングしたピザ生地をパーラーという道具で窯に入れる。(写真はパーラーに粉をふりかけ右端の生地を乗せるところ、パーラーに乗せた生地2景、窯に入れたパーラー2景)

Pa21Pa22_2Pa23Pa24Pa25_2 焼けるまで数分待って、裏側が焼ければ出来上がりで皿に移す。それを準備した枚数だけ繰り返すので大変である。(写真は窯の中の生地、同じく焼け具合を見るところ、パーラーから皿に移すところ、出来上がったピザ2景)

Pa26 今回は12枚焼く予定で、途中火力が弱くなったので6枚終わったところで小休止にした。ちょうど昼近くなったので、外の庭テラスで飲み物やほかの食べ物を出して昼食になった。(写真はピザやその他の食べ物や飲み物)

Pa27Pa28Pa29 一休みした後、残りの6枚を焼き、その後、Kさんが作ったシイタケを頂き、ビールやワインを飲み、いろんな話に花を咲かせた。今日は風もなく、日の光を全身に浴びて幸せな気分に満ちた一日だった。(写真は焼いたシイタケ、のどかな苑内風景2景)

(この項終り)

2017年10月30日 (月)

「風のかたみ」、「墨龍賦」を読んで

「葉室 麟」の作品を2件続けて読んだのでその読後感を記す。

(1)風のかたみ    葉室 麟    2017年3月発行

Img_5583_3 この本は今までの葉室麟の作品と違って女性がメインで、ミステリー仕立ての小説である。本の表紙裏に「九州豊後・安見藩の女医である桑山伊都子は、目付方の椎野吉左衛門から藩の重臣である佐野家一族の女たちを“生かす”よう命ぜられる。佐野家当主の了禅と一族の男子は藩主に叛旗を翻し、ことごとく上意討ちとなっていた。

生き残った了禅の妻ら佐野家の女たちは白鷺屋敷に軟禁されており、伊都子は傷を負った女たちの治療も担っていた。佐野家の嫁や女中のなかに懐妊している女子がいるらしく、安見藩お世継ぎ問題とも関わりがあるようだ-----」うんぬんと書いてある。

 この表紙裏にある話の通りに女医桑山伊都子が監視役を兼ねて白鷺屋敷に入り、了禅の妻、息子の嫁2人と孫娘、及び3人の女中の女ばかりの家で生活を共にしてその内情を知っていく。また怪事件が発生し死人が出るなどして藩の目付方に対してどう対処するか思い悩む。

しかし伊都子の役割は狂言回し程度で、話の大筋はお家取り潰しの危機の中でどうやって子供を守れるかを考え、女が生きるためも戦いだと策をめぐらした了禅の妻のきぬと次男の嫁の初を軸とする佐野家の女性たちの行動と、それに対する藩の重臣や目付の対応が主でそれが見どころになっている。

 次男の嫁の初の役どころが最後に自死した本人から女医伊都子にあてた手紙によって明かされるのだが、初と伊都子とのかかわりあいや考え方をそれ以前に描写しておけば、より厚みのある作品になったのではないかと思った。

 しかし作者はこの作品を、手紙を読んだ伊都子が「ゆっくりと彼方に飛び去る白鷺の幻影をいつまでも見続けていた」と記したところで終了している。それはこの小説の主題を初の手紙としてまとめるとともに、本の表題を「風のかたみ」にするための布石だったのかもしれない。
 

(2)墨龍賦     葉室 麟    2017年2月発行

Img_5628_2 この本は「風のかたみ」の次に読んだ。内容は海北友松(かいほうせいしょう)という絵師の物語である。安土桃山時代に大きな足跡を残した絵師は狩野派の隆盛をもたらした狩野永徳とそれに対抗し、松林図屏風で知られる長谷川等伯の2巨人が知られているが、この墨龍賦という絵師のことは知らなかった。

 今年の春、京都国立博物館で開館120周年記念特別展覧会海北友松展が開催され40日の会期中16万人の入場者があったということで、再認識した人も多かったと思う。

 長谷川等伯については2012年(平成24年)9月に安倍龍太郎が「等伯(上・下)」を発行し直木賞を受賞した作品がある。また狩野永徳については「利休にたずねよ」で直木賞を受賞した山本兼一が2013年(平成25年)4月に発行した「花鳥の夢」という作品がある。

 この両作品は発行年月が近かったこともあり、両者のライバル関係がそれぞれの立場から描かれているので興味深く読めた。「花鳥の夢」には友松のことも少し書かれていたそうだが、全然印象に残っていない。

 しかし今回の特別展によって、狩野永徳や長谷川等伯と並ぶ桃山絵画の巨匠といわれるようになった海北友松について、同じく直木賞受賞者の葉室麟が墨龍賦(ぼくりゅうふ)という作品に仕上げたので、3者3様の生き方を知ることが出来た。

 海北友松は浅井家の家臣の家に生まれたが父が戦死したため幼くして東福寺に入り、ここで狩野派の絵画を学んだ。また生涯の友になる明智光秀の家臣斎藤内蔵助に逢う。

 やがて狩野派の絵師として永徳に仕えることになった。永徳は信長に見出され安土城全体に障壁画を描いたが、明智光秀に暗殺されると精魂込めて描いた障壁画も安土城と共に焼失してしまった。

 しかしその後秀吉に見出され、聚楽第の障壁画を描くなどして狩野派の棟梁としてその発展に尽力していたが天正18年(1590)48才で倒れ、不帰の人となった。

 信長の死後狩野派から離れていた友松は昔からの知り合いだった安国寺恵瓊を訪ね、建仁寺の襖絵や障壁画を描いたのは慶長4年(1599)友松66才で、永徳がなくなってから9年後のことである。

 その後も大名家との出入りより朝廷や文人との交わりを深め、悠々自適に過ごしながら絵を描き続け、慶長20年83才で亡くなった。

 友松があまり知られていないのは現在の残されている作品で重要文化財が10点以上もあるのに国宝が1点も無いせいもあるのかも知れない。しかし「墨龍賦」を読み、作品を写真で見ることによって海北友松という絵師のことを知ったのは大きな収穫だった。

Photo

       (写真は建仁寺方丈北面の雲竜図)---クリックすると大きくなります

2017年10月16日 (月)

国立ひたち海浜公園でコキアを見る

 平成19年(2017)10月13日(金)、霧雨の中を国立ひたち海浜公園にコキアを見に行った。雨が降っ)たり止んだりであまり良い天気ではなかったが、このあと一週間位は晴れないということなので、時間が取れたこの日にした。

Img_2506_2 Img_2504ひたち海浜公園見晴らしの丘には去年の4月にネモフィラを見に行って以来である。
  ここは春のネモフィラ、秋のコキアが売り物なので、秋のコキアも見てみたいと思っていた。(写真は春のネモフィラ2景)

Img_5586aImg_5612Img_5611_2Img_5588 天気は良くないので、あまり見に来る人は少ないと思った通り、駐車場は空いていたが、バスの数が多く、団体や海外の人を結構多く見かけた。見晴らしの丘手前の噴水のある池の近くには萩の群落があってまだたくさん花をつけていた。(写真は西口入口の水のステージ、みはらしの丘方面からの噴水、萩の群落、みはらしの丘入り口付近)

Img_5589Img_5590Img_5591Img_5592 見晴らしの丘入口付近にも萩があり、その先に白い花をつけ始めたソバや満開のコスモスの花畑があり、コキアはその先に赤く色づいている。(写真はそば畑とコキア、コスモスとコキア3景)

Img_5597Img_5596Img_5594Img_5599Img_5605 更に丘の上方に行くと光線の関係で赤からピンクに色づいたコキアが一面に見渡せる。はるか先には観覧車がみえる。(写真はコキア5景)

Img_5607Img_5608Img_5609Img_5610 丘の上の方に行くにしたがって常陸那珂港と太平洋が見えてくる。振り返るとコスモス畑や園内を走るシーサイドトレインなどがコキア畑の下の方に見える。(写真はコキア4景)

 みはらしの丘にある解説板にはコキアが32,000株、コスモスは約200万本植えられていると記されている。春のネモフィラの時は450万本植えられていたそうで、植替えの作業をする人たちは大変だろうと思うと共に、多くの人の努力があってこの景観が見られることに感謝したい。


(この項終わり)

2017年10月 4日 (水)

花畑・菜園便り(7)

 「花畑・菜園便り」の8月と9月の花畑・菜園の報告である。

[ 花畑 ] 8月末

Img_5414Img_5417Img_5437 いつの間にか10月になり、秋の気配が漂う候になってしまった。8月の花壇は7月の延長の花が多かったが、それでも8月末になると秋の草花が目に触れるようになる。マリーゴールドの近くには百日草が大きくなってきており、花壇を華やかに彩っている。(写真は百日草3景)

Img_5413aImg_5418aImg_5559Img_5558Img_5416_2 またキバナコスモスが黄色い花を咲かせ、鶏頭が赤や白い花をのぞかせる。(写真はキバナコスモス3景、鶏頭2景)

Img_5419Img_5434Img_5438Img_5439 秋のひたち海浜公園を赤く彩ることで有名なコキアを昨年2株買ったきた。そこから採れた種を育てた2代目コキアもだいぶ大きく、丸くなってきており、間もなく色づきそうだ。

 8月末には家の前にある備前堀の先の田んぼの稲も黄色く色づき始め、9月半ばには稲刈りが始まりそうだ。(写真はコキア2景、黄金色の稲2景)

Img_5422_2Img_5421Img_5412Img_5433Img_5441_2Img_5442_2Img_5549_2 一方で5月から咲き始めているペチュニアはまだまだたくさんの花を咲かせており、サルスベリ、ムクゲのような木々も花盛りである。(写真はペチュニア2景、サルスベリ3景、ムクゲ2景)

[ 花畑 ] 9月末

Img_5541Img_5551Img_5548Img_5537Img_5547 9月の半ばを過ぎるとキバナコスモスはだんだん秋のコスモスに代わりススキの穂も見えてくる。(写真はキバナコスモスと普通のコスモス、普通のコスモス4景)

Img_5569_2Img_5545Img_5554Img_5571Img_5575a 紫のアメジストセージが咲きだした。カキの実も色づき始めたが渋柿である。
鉢植えの菊の花はお彼岸に間に合った。(写真はアメジストセージ、コスモスと柿の木、柿の木、菊2景)

Img_5553Img_5562_2 田んぼの稲もすっかり刈り取られたが台風で倒れた稲はまだ刈られていない。コシヒカリは倒れやすいらしい。

(写真は刈り取られた田んぼ、倒れた稲)

 

 

[ 菜園 ]

Img_5447Img_5564Img_5565Img_5566Img_5567 菜園の方のキュウリ、ナス、トマトはそろそろ終わりである。ミニトマトとピーマンはまだ採れている。ことにミニトマトはこの光具合でもわかるように以前より甘みも増して美味である。

今年のスイカもおいしかったが、7月の雨の影響で20個くらいは大きくなったものの、半数近くは収穫前に腐って食べられなかったのは残念だった。

今、苗が植えてあるのは大根と虫よけネットで覆ったレタス、白菜、ブロッコリーである。(写真はミニトマト、大根苗、レタス苗、白菜苗、ブロッコリー苗)

(この項終わり)

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